スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2022年10月10日

鶴岡に徳川四天王集合

酒井家庄内入部400年記念式典で
荘銀タクトに行ってきました

6年程前からこの日がくるのを予想して
かなりの歴オタ街道ひた走ってました

お目当ては当然

現徳川四天王座談会


真ん中左手から右に
徳川 酒井 本多 榊原 井伊の席順

感慨深かったです

徳川は容保の方からの養子ですからねぇ
本多も榊原も色々あってね
酒井と井伊くらいでしょうが
長男がいる分、酒井だけですかね
一応脈々と男系を受け継いできたのは

それを考えると庄内に来て正解だったね酒井は

来年の大河は
「どうする家康」のようですが
恐らく私は見ません笑

今回の座談会をもって歴オタは終了とします笑


見る方に1つ着目してもらいたいのは

演じる役者の年齢

酒井忠次は家康の16歳上
家康は父広忠の17歳の時の子で
忠次は四天王の中では唯一
元々は広忠の家臣だから
当然1番の年長者

本多忠勝と榊原康政は家康の5歳下
井伊直政は家康の18歳下です

忠次と直政は34歳違うんです
家康と父広忠が17歳違う事を考えると
忠次からしたら直政は孫ほど違ってた事になります

こーゆー年齢差もあり「四天王」の期間が不明ですが個人的には

1584年の小牧・長久手の戦いで、直政が初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになったあたりから1588年に忠次が家次に家督を譲るまでのたった4年間ほどと推測してます

四天王とは別に徳川三傑ってのもありますが
1588忠次が家督を譲ってから
1602年の直政が亡くなるまで
こちらも同じく4年ほどかと思われます


色んな歴史ドラマ見ましたが
大概は歳を無視した設定で
見る気が萎えます


ちなみに関ヶ原時
家康57歳
忠勝52歳
康政52歳
直政39歳
忠次は没


大坂冬の陣時
家康71歳
忠勝没
康政没
直政没

もう大坂冬の陣の時は
家康軍自体は弱かったと考えるのが普通で
真田にあと一歩まで追い詰められる事態も
幸村この時、脂の乗った48歳
当然と言えば当然

関ヶ原後は戦など無かったからゆるゆるで
幸村は戦国のラストサムライと言えます

おっと、
脱線しすぎました

時を超え徳川四天王が集いし
座談会
きっと草葉の陰でも家康忠次忠勝康政直政の座談会が開かれてる

と妄想しながら会場を後にしました  


Posted by 黒やぎ at 08:52歴史

2022年06月14日

鳥海山と大物忌神の由来を考える

鳥海山
Wikiにはてんでバラバラな時期の諸説が載ってます
景行天皇(12代)だったり欽明天皇(29代)時代の創祀と伝えられてるが
どちらも東北にヤマトの力が及んでない時代で神道も仏教もないのでありえない

個人的には役行者(634~701)が妥当なんですよねもろもろと

役行者が開山したとする前提で、行者がはじめて山に登ったとき、「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている
山上にあって霊鳥が生息すると言い伝えられる「鳥の海」によるとする説が有力であるともWikiには記載されてます

霊鳥は雷鳥の事だと推察できるよね


大物忌神
謎ですよね
色々調べていくと

山々の修験道は役行者で間違いないかと思うが
寺社の創建はもっと後の800年すぎ頃の空海だったり慈覚大師円仁だったりするのかと思います

祭神の大物忌神
物忌とは忌むこと。凶事や不吉を避けるために、あるいは斎戒のために、謹慎すること。
凶事や不吉は噴火を思わせ歴史を見ると
810~823年
871年
ちょうど創建時期に重なるっちゃ重なる
大噴火を抑えるための神とも考えられる

別のアナザーストーリー的には
蜂子の皇子が鶴岡へ逃れた593年のわずか6年前に
蘇我氏が物部を打ち滅ぼした丁未の乱がありました
その後に蘇我が推してた崇峻(蜂子の父)が天皇になりましたが
結局蘇我に暗殺され蜂子は鶴岡へ流れつきます

丁未の乱で滅ぼされた物部の生き延びた人達はちりじりになり
鳥海山を越え秋田にも流れつき、いま現在、神社の宮司さんになっております
個人的には
物部を鳥海山からヤマトに来ぬよう大軍を引き連れて攻めて来ぬよう
物部を忌み嫌った意味で大物忌と名付けたと壮大な勘ぐりしたいとこではありますが、
創建の時期を考えるとちょっと無理筋(笑)


結論は
鳥海山の由来は役行者で
大物忌神は地震を抑える神と考えます

諸説あるからみなさんも色々調べて思いを馳せてみてはいかがでしょう








  


Posted by 黒やぎ at 16:32歴史

2022年06月10日

蜂子皇子が開祖?

久々に歴史ネタ

Wiki的に
蜂子皇子は562年生と記載されてますが
父の崇峻天皇553年生?となってるから
さすがに9歳で子供作らんでしょう笑

587年の丁未の乱により物部氏が滅び蘇我馬子がごり押ししてた
崇峻が即位

588年崇峻天皇が小手子と結婚して
蜂子王子と錦代皇女(妹)が誕生

592年
蘇我馬子により崇峻天皇暗殺

だから
蜂子皇子が聖徳太子の計らいで京を逃れ八乙女に上陸したのは
4歳5歳

この時、母と妹は別ルートで脱出、東北に落ち延び(東北は大和朝廷の管轄外)
旅の途中で妹が亡くなり、母は福島県伊達郡にとどまり桑を植え養蚕の技術を広めたが
蜂子と会えないことを悲嘆して自害したと伝えられている


蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、
羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。

が、他に空海説と役行者説がある

空海(774~835)は真言宗の開祖で
修験道の開祖は役行者(634~701)

年代から見ても

役行者は650年以降に
山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、
吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築きとあり

鶴岡の金峯神社の創建は672年に役行者が開基となってる
月山への登拝道に「行者返し」と呼ばれる急坂もあるのも
出羽三山も鳥海山も修験道は他の山形の山々同様に役行者が開祖だろうと推察される

そもそも
東北への仏教の普及のない状態で
しかも皇族の蜂子皇子が羽黒権現を
感得するなどはありえないかと

山自体の開山は当たり前だが地元民だよ







  


Posted by 黒やぎ at 16:04歴史

2021年04月15日

修験道と開山

前回、神社についてUPしたんですが
その続きです

鳥海山や出羽三山の開山を調べると
書籍もネットも風評的にも
国家神道で煙にまかれてますが、
修験でググるとある人物に行き当たります

それが

役小角(えんのおづぬ)

この方Wikiで調べると
役行者(えん のぎょうじゃとも呼ばれており、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)
日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされていて
熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し修験道の基礎を築く[
とあるんですが

ざおうごんげん?

そうです
蔵王連峰の名は、役小角もしくは叔父の願行が
679年に刈田岳もしくは不忘山で蔵王権現を勧請した事が由来となっております


ちなみに庄内には672年に
温海嶽山頂に霊夢により由豆左売神を勧請
金峯山山頂に金剛蔵王権現を勧請
とあります

その他
出羽三山には
登山道に行者返りという急登な坂があり
現在過去未来の祈りについても

蔵王権現の
釈迦如来(過去)
千手観音(現在)
弥勒菩薩(未来)
のすべてのご利益を兼ね備えているとこを

羽黒・現在 
月山・過去 
湯殿山・未来
にあてがったようにも見れるし

鳥海山にも蔵王権現ゆかりの場所が数か所ある点を
考えても


修験道の開拓は役小角でまちがいないでしょう


ただ、
開山はと言うと
それはあくまでも地元民であって
国家神道によるファンタジーストーリーでない事は確かかと

伝承してる人も分かった上で
地域発展のために伝えてるのかなとは思いますが

東北としての、庄内としての
正しい歴史を伝えていただきたいもんだなと
想う次第です


追伸
役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。
と金峯山寺のホームページ載ってますが

金峯山と金峯山寺

読みは

「きんぷせん」と「きんぷせんじ」

鶴岡の金峯山(きんぼうざん)


昔は「きんぷせん」で神社ではなく寺院
だったのかな

ではまた
  


Posted by 黒やぎ at 15:29歴史

2021年04月09日

関東と関西の境界線

みなさんはこんな疑問を持ったことはないだろうか。なんとなく東京を中心に関東、大阪を中心に関西というイメージがありますが、厳密な境界線はどこなのかを

えっ?思った事ない?( ̄▽ ̄;)

実はワシも考えた事もありません(笑)
東北だからそりゃそーだよね
どうでもいいっちゃどうでもいい

たまたまネットを彷徨っていた先でこんなの見つけてしまいました


「関より東を『関東』、関より西を『関西』という。ここに、関市か関東・関西の分岐点であることを宣言する」


へぇ~状態

そもそも関市を知りませんでした(笑)

岐阜県関市で平成4年4月15日に宣言してたんです。つまり1992年のことなので、約30年前。けっこー最近なんだと思いつつ、なんで関市になったのかは関ヶ原の戦いが関係してるんだろと思いましたが
ググってみました


時はさかのぼって672年の壬申の乱(笑)

これも関ヶ原が主戦場なんですよね

関ヶ原ってやばいよね

天智天皇の跡目争いです

当時は跡継ぎ的には弟が習わしでしたが、天智天皇やら周りは息子が可愛かったんでしょうねぇ

天智天皇(中大兄皇子)崩御にともない
弟の大海人皇子と息子の大友皇子の間で起きた
仁義なき戦いです

結果的に息子が負け自害しました
弟は天武天皇になってその後、「日本」という国号を制定し、日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代となるわけですが


息子(大友皇子)が自害した伝説の場所が愛知県岡崎市
(諸説あり)

近江から逃げてきたんですが矢作川のとこで息絶えたと言われてるとこがありまして
今でもここの町名は東大友町、西大友町と古代の話が現在に繋がってるとこもあります


壬申の乱以降に関ヶ原の関に関所が出来ました

不破関といいます
古代の三関の1つとなりましたが

これを作ったのが天武天皇です

二度と大友皇子が攻めてこないように

破れない関所と言う願いの

関所を作ったようです

それが不破関

やっとここまできました笑

この関から東が関東で西を関西と言ったそうです



内容すっ飛ばさして
結果だけ記載してたら面白くないかなと思って(笑)


またそのうち  


Posted by 黒やぎ at 10:50歴史

2021年04月08日

酒井家庄内入部の裏側

桜


酒井家庄内入部400年祭がついに来年になりましたねぇ

コロナも収束してるはずだから堂々と
NOマスクでイベントには足を運びたいなと(笑)

さて、タイトルにあるように
なぜ酒井家が荘内に入部したかは
あまり知られてないので
改めてUPします

ズバッと核心から言うとそれは

鳥居忠正(父は元忠)の身内だからです

秀吉政権時代に家康は関東に移封され
その時、鳥居元忠は東北諸大名の南下に対する備えや監視のため
下総国矢作城4万石(現在の千葉県香取市)を与えられてます

この時の事が山形藩移封に繋がり

庄内を仕切っていた
最上義光が亡くなってから、何年も跡目争いがあり、
それが幕府に知られ山形藩57万石
山形22万石
新庄6万石
荘内13万8000石
上山4万石
などなどに解体され

メインの山形藩は鳥居家にまかせ引き続き東北諸藩の監視にあたらせたんです

その時に

鳥居忠正の妹婿、戸沢政盛を新庄藩
     娘婿、酒井忠勝を荘内藩
     従弟、松平重忠を上山藩

親類藩を周りに配置しました


これが酒井家が荘内に入部となった裏側です

来年の400年祭は楽しみです
  


Posted by 黒やぎ at 10:50歴史

2021年04月05日

神社について

ご無沙汰しております
コロナ禍の中いかがお過ごしでしょうか
最近Netflixばっか見てるので
休みの日はニート状態です笑



さて、今回神社について色々と思うところがありまして

以前神道にふれた事があったんですが、
かなりファンタジーでしたねぇ笑

神社についても創建が寺院に比べるとぼやかしてるようにしか見えないんですよね
神話についてはこれでもかってくらい詳しく書いてあるのに

712年の古事記や720年の日本書紀にすら神社の創建が出てきてないのは神社が無かった証で、間違いなくこの後に出来たと思われます。格式高い古い神社の創建を調べてもはっきりしないのは仏教の寺院の後に出来たとかは不味いと思ったのかもしれませんね日本の根幹だから


地元には大物忌神社や月山神社といった東日本ではトップクラスに社格も高い素晴らしい神社があるんですが

どちらもwikiで調べると6世紀半ば~後半に出来たような記述がありますがそれは普通にありえないんですよね

そもそも6世紀の東北は蝦夷であって大和朝廷の支配外

つまり日本ではないので世界各地にある山岳信仰(古神道)があっても国家神道を知るはずもないんですよね

大物忌神社の開山のくだりは間違いなくフィクション、月山神社についてもフィクションではありますが

蘇我馬子により父である崇峻天皇が暗殺され蜂子皇子が592年593年に大和朝廷の手の及ばない

鶴岡の八乙女に逃げ延てきたのは確かでしょう

ただ、蜂子皇子は仏教は知っていたはずですが、日本で最初に建てられた飛鳥寺が596年だから寺の存在も、ましてや神社の存在など知るはずもなく

開山自体も全国的に7世紀に入ってからの記録で、6世紀に開山した記録が見当たりませんでした

蜂子皇子が来たのは確かですが
開山して建てたは脚色したと言えます

まぁ現段階で調べた限りはこうなります


大和朝廷エリアは神道があって仏教が広まったのかと思いますが東北は支配された国家神道(天皇)が広まるより仏教が受け入れられ広まったのかと思われます

スマホでブログは疲れますねぇ汗

今回はこの辺で  


Posted by 黒やぎ at 14:24歴史

2019年11月18日

おすすめ本

今回はおススメしたい本のご紹介です

今年YouTubeでざわつかせた
ソウル大学名誉教授であるイ・ヨンフン元教授を筆頭とした歴史に精通した方々が出した
反日種族主義

7月に韓国でばか売れして
先週日本でも販売されました


日本による統治や慰安婦問題、徴用工問題、竹島について
当時の法令解釈や統計データを元に、韓国での定説をことごとく覆す本となっており

あの玉ネギ法相が、吐き気ががする本だと激怒したようだ


おそらく日本人もびっくりする人が多いかもしれませんが
真実がこの本には書かれています

この本を発売するにあたり、教授は
韓国の新聞に慰安婦団体及び歴史研究者あてに
反論がある人は公開討論会をしますとの広告を載せ
現在までに1人も打診なし(笑)

買うのが難しいようならYouTubeで是非ご覧ください!
歴史観変わると思います
  


Posted by 黒やぎ at 12:38歴史

2019年11月07日

知られざる歴史?①

日本の原子爆弾開発
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%8B%E7%99%BA

大東亜戦争中に
原爆研究してた国(6カ国)
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・ドイツ・日本


日本
陸軍が理研に依頼した二号研究と
海軍が京都帝国大学理学部に依頼したF研究がありました

メインは二号研究でF研究は終戦間際、二号からの情報提供のうえの開発だったようです


日本の二号研究
研究費用2000万円
研究スタッフ20数名


アメリカのマンハッタン計画
研究費用20億円
研究スタッフ12万5000人



理研の科学者達はこの戦争ではアメリカも含め開発できないと思ってたようですが

結局この金と人員の差が開発成功の早さになり
相手が研究してる事を知ってるわけですから

やらなきゃやられる的に

原爆投下に繋がったと考えられます

あれから70数年

2019年現在の核保有国(8カ国)
アメリカ・ロシア・イギリス ・フランス ・中国 ・インド ・パキスタン ・北朝鮮
核兵器保有が疑われている国
イスラエル ・イラン ・シリア ・サウジアラビア・ミャンマー


結果的に日本は開発に至らなかったという事になってますが、実は終戦3日前、つまり長崎の原爆から3日後にF研究が核実験に成功したと言われてます。



それが本当なら、核拡散防止条約までに核保有してる事となり日本は今後核開発できる?って事に繋がるかもしれませんねぇ。




終わりに

空襲で研究施設を焼失した理研の1部は山形高校に疎開し、六フッ化ウランの製造を続け、終戦時、アメリカに見つからないように残っていた六フッ化ウランを山形高校の校庭に埋めその後はわからないとされています

この山形高校は現在の山形大学です

今も校庭のどこかに埋まってると思うと怖すぎます  


Posted by 黒やぎ at 00:41Comments(0)歴史

2019年11月06日

韓国歴代大統領の末路

韓国大統領
1〜3代 李承晩
ハワイに亡命
        4代 尹潽善
軍法会議で懲役3年
5~9代 朴正煕
暗殺
    10代 崔圭夏
11~12代 全斗煥
反乱首謀罪で死刑判決
13代  盧泰愚
収賄容疑で逮捕
14代 金泳三
身内が逮捕
15代 金大中
身内が逮捕
16代 盧武鉉
自殺
17代 李明博
収賄や横領で逮捕
18代 朴槿恵
収賄で逮捕
19代 文在寅
現在捜査中

高確率でヤバい末路を辿ってます

何んもなかったのは10代くらい

大統領なるときどう思ってるんだろね

文はチュチェ思想が強すぎて
昨今の大統領の中じゃ一番やばい

結末に注目!
  


Posted by 黒やぎ at 16:58Comments(0)歴史

2019年10月26日

誰が作った?

今から74年前
日本は大東亜戦争に負けました
その後
1945年10月2日~1952年4月28日までの約7年日本はGHQ(ほぼ米国)に間接統治されていた訳ですが、この期間にマッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始され、連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が数回行われ、手続き上は大日本帝国憲法の全面改正という形態をとり、1946年(昭和21年)11月3日に新憲法の日本国憲法が公布。1947年(昭和22年)5月3日に施行されております

日本国憲法
第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

その前の
大日本帝国憲法
第一条
大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する。

この時から天皇は統治者から象徴に変わりました

ここでそもそも論ですが

そもそも憲法制定って、主権の発動なわけですが、主権と行政権は留保してたとはいえ間接統治に変わりはなく、何もかもGHQの了承なしには進められなかったので主権はGHQにあったわけですよ
主権がないのに日本国憲法を作っちゃったそもそも論

一応
国際条約によると、他国に占領されている間は、占領国から憲法改正を要求されても、それを拒否できたはずなんですがね、不戦条約(パリ条約)ってのが、そーゆー意味では日本政府は総司令部の憲法改正要求を拒否できたはずですが、拒否せずにほとんど総司令部案の意のままで憲法を成立させたのは、その方が日本にとって得になると考えたからなんで
しょうが良い悪いぬきにして
原作・脚本:GHQ
出演:日本政府
主演俳優:吉田茂

は否めません
  


Posted by 黒やぎ at 19:51Comments(0)歴史

2019年10月26日

日本の神話と神社とお寺と



最近ハマってました日本神話
読めば読むほど
ツッコミどころ満載です
もはやギャグに近いです

カオス(天地開闢)に始まり
造化の三神
イザナギ・イザナミの国生み
アマテラス・ツクヨミ・スサノオ
天岩屋戸やらヤマタノオロチ退治、因幡の白兎
大国主の国譲り
天孫降臨

いやー面白い!
ぜひともハリウッドで映画化を(笑)

読むまであまり深く考えた事もありませんでしたが、
古事記(712年)や日本書紀(720年)より
仏教伝来(538年)が古いの知ってましたか?
知らないの私だけでしょうか(汗)

古事記は貴族の太安万侶が編纂し
第43代の元明天皇に献上

日本書紀は皇族の舎人親王らが
第41代の持統天皇までをまとめました
この時も元明天皇時代です

よく今まで伝わったなと感心しますね

ちなみに2019年は
古事記が出来てから1307年
皇記(第1代神武天皇~第126代今上天皇)
だと2679年です



個人的な見解ですが

日本の神様ってそもそも
あらゆる自然物、自然現象を神様ととらえてて
自然物というと、海、山、川、滝、池、湖、木、空、岩、田んぼ、米粒、人、動物などなど
自然現象というと、気象(雷、雨、風、台風、雪)、地震、火山噴火などなど
それ以外にも、ほとんどすべてのものには、神が宿っていると考えられてましたよね
だから建物を設けず神様が宿るものがあるとされるところに、都度祭壇などをかまえて
祈祷を行ってた歴史があり、そんな中で黒船のようにやってきた仏教伝来
日本人びっくらぽんです
神社自体の社殿を造り神の常住(本殿に御神体を封じ込め)を求める様になったのは
仏教の寺院の影響であり、かの有名な神社の創建があいまいなのは仏教への対抗心

神仏習合によるものですが
神社の中に寺がある神社より
寺の中に神社がある寺が多いのは最初に寺があったところに神社が作られた証拠
ではなかろうかと

話が尽きないのでこの辺でやめときます

1年半ぶりの投稿でした












  


Posted by 黒やぎ at 11:33歴史

2017年04月09日

丁卯に大獄

一年ぶりに南洲神社の講義を聞きに行ってきました。

ここは毎月第2土曜日14時から1時間、論語の講義があり15時からは論語とは別に様々な先生を呼んで1時間ほど講義がある2部構成となってます。

さて、今回は久々の歴史講義。一応毎月コミュニティ新聞に講義が掲載されるのはチェックしてます。


講義前にパシャって気づいた

来年の大河は西郷隆盛物

当然観光に訪れる人は増える

なので

この看板はリニューアルした方が良いかと


まっ、ワシが思う前に

神社関係者の方は既に手をうってる事でしょう

と思いたい


さて、歴史講義ですが、今回のテーマは莊内藩の丁卯の大獄

どこの藩でもありましたが改革派と佐幕派のトラブル

長州も薩摩も改革派が勝ち

莊内藩は佐幕派が勝った結果の賊軍だった訳で


後に名を残した松平権十郎、菅実秀は誤った判断をし

歴史に埋もれた
酒井右京と酒井奥之助や、大山庄大夫・松平舎人等など断罪された改革派は正解だった

となりますわな


奇しくも今年は丁卯の大獄から150年

みんなで改革派に想いを馳せてみてはいかがでしょう  


Posted by 黒やぎ at 23:35歴史

2017年03月25日

新〇組と新〇組と新〇組

来年で明治維新150年

庄内を代表する幕末の人物組織と言えば

全国的には荘内藩よりも清河八郎が有名ですよね

幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じたと言われてますしね



さて、清川出身の清河八郎が発案の浪士組

表向き将軍上洛のための徴募でしたが
京都に着くや清河が尊王攘夷部隊への路線変更をうたい

幕府からアホちやうかと江戸への帰還命令が出され
江戸に戻った清河率いる浪士組は清河暗殺後
4月に新徴組と名付けられ江戸市中取り締まり役だった荘内藩に預けられます

一方
清河に反対して京都に残った近藤勇率いる浪士組は壬生浪士組を名乗り
京都守護職だった会津藩に預けられ8月に新撰組と名付けられます

幕末には色々な武装組織がありました

奇兵隊、玄武隊、彰義隊、御陵衛士(新撰組からの分断組織)
赤報隊、天狗党、天誅組、勤王党、などなど他にも沢山ありますが

なにゆえ新徴組と新撰組という似た名前になったか

新徴組は新しく徴募したところから名付けられてます

新撰組は新しく選ばれたとかが由来になってますが
もともと浪士組なので新しく選ばれたってのはおかしい

新徴組から選抜選別したがどうみても正しいでしょう(持論)


その他に、新徴組の中に編成されていた小林組という砲術組がありました

戊辰戦争時は新整組と名付けられ戦ってます

荘内藩が無敵艦隊と言われた大きな要因は新徴組がいたからと言いますが
当時の戦の兵力の差はすでに刀ではなく銃

本間家が買いそろえた最新銃を使いこなした新整組こそが無敵艦隊の立役者だったと思います(持論)

小林組は小林登之助が開いてた塾の塾生で編成されており新徴組のような荒くれ者含む寄せ集め集団と違い
すでに組織化されていたと考えられます

おまわりさんの由来は新徴組が見回ったところからと言われてますが
これも小林組の貢献が大きいと思います

犯罪者もいた新徴組の中で小林組の評判が良かったからこそ新徴組は砲術組として一本立ちしそうだった小林登之助を妬み闇夜に紛れ一家惨殺しています

ひどい話だ


新整組は、新徴組より整っているが名の由来でしょう(持論)



日の目を見た新撰組と

埋もれた新徴組と新整組

最近小説とTVドラマてようやく新徴組が世間に知られるようになりました

あとは無敵艦隊最強部隊の新整組を是非とも世に広めたい今日この頃です  


Posted by 黒やぎ at 23:00歴史

2017年03月09日

来年は明治維新150年

来年は明治維新から150年の節目。



まぁ賊軍扱いされた我々にはどうでも良い事なので決してはしゃがないように(笑)

しかし賊軍扱いはされたが私らは決して賊軍ではない事を共通認識にしとかないと誤った歴史認識を次代に伝えかねない

そもそも、もともと
孝明天皇は反長州で、京都から長州及び長州派の公卿を追い出したのち禁門の変勃発(1864年8月20日)

会津と薩摩は同盟組んで長州をやっつけたわけです

会津薩摩は御所を守り
御所に発砲した長州はこの時200%朝敵賊軍

その後
第一次長州征伐開始(1864年7月)
西郷、勝との会談(1864年9月11日)
第二次長州征伐(1865年7月)
薩長同盟(1866年3月7日)
将軍・徳川家茂、大阪城で没(12月5日)
慶喜が嫌々15代将軍(1866年12月5日)
孝明天皇が崩御(1867年1月30日)
明治天皇、14歳で践祚(1867年2月13日)
四侯会議(1867年6月6日)
大政奉還(1867年11月9日)
王政復古(1868年1月3日)
荘内藩メインの薩摩藩邸焼討(1868年1月19日)
鳥羽伏見の戦い(1868年1月27日)
柴橋事件(1868年4月)
江戸城、無血開城(1867年4月)

ざ〜っくりとこんな感じですが

荘内藩が賊軍にされたのは
薩摩藩邸焼き討ちしたからではなく
鳥羽伏見後の柴橋事件です

薩摩藩邸焼討は
薩摩が江戸を暴れまわった結果
荘内藩は
あくまでも江戸市中取締りの役を全うしただけ

問題はその後

大政奉還してるのにも関わらず慶喜は荘内藩の功労を讃え、寒河江幕領の管理と年貢米を与え、荘内藩せっせと年貢米を荘内へ運び
これが新政府軍に知れる事になり、朝廷の公領を侵害したとして荘内藩征伐に踏み切られた柴橋事件

これで賊軍にされたんす

はい、荘内藩いっさ〜い悪くない

結論
薩摩は、してやったり維新
長州は、逆転満塁ホームラン維新
会津は、なんでそうなるの維新
庄内は、とばっちり維新


なので、来年は
とばっちりから150年

はしゃげないでしょ?(笑)


ちなみに西郷隆盛は日本の先を考えてとは言え、おもいっきり朝敵だった長州を許しちゃう人、なんも悪くない荘内を許さないはずもなく、賊軍なのに許してくれた的な発想は今なら100%ない。いやむしろ会津並みに荘内を討伐した日にゃ今度は新政府軍が全国から非難されるだけだったのね。

悪いのに悪いとは全然思ってないアホ長州と
悪くないのに悪いと思っちゃったバカ真面目な荘内と  


Posted by 黒やぎ at 00:10歴史

2016年06月17日

酒井入部の真実

久々に歴史ネタです

庄内でお殿様と言えば
当然、酒井のお殿様ですよね

酒井忠次


酒井家は
徳川の本筋にあたるとも言える
譜代家臣で
酒井忠次は徳川四天王筆頭でもあり
織田信長、豊臣秀吉にも信頼された武将ですが、
その孫の酒井忠勝の時代に信濃松代藩から
荘内に移封されました

ちなみに酒井家の次に松代に移封されたのは
いま大河でやってる真田丸

真田信繁(幸村)の兄
真田信之(大泉洋)です



話を戻して、
酒井忠勝が荘内に入部したのは1622年

庄内を仕切っていた
最上義光が亡くなってから、何年も跡目争いがあり、
それが幕府に知られ、お家よろしくないとの理由で
山形藩57万石は解体させられました
その時に、様々な藩が立藩したそーです
山形22万石
荘内13万8000石
新庄6万石
上山4万石
本庄2万石などなど

その一つである荘内への移封話が、幕府から酒井家に伝えられたんですが

酒井忠勝としては、当然ながら、
山形22万石を所望しましたが、叶わずに
荘内13万8000石に移封となりました

では、なぜ酒井家は山形へ行けなかったのでしょう、なせ荘内への打診があったのか 

答えは山形に移封された
鳥居忠正にあります

鳥居忠正の父、鳥居元忠は
酒井忠次同様に、家康が今川の人質時代からの家臣で、忠次ほどの武将ではなかったものの、
家康は忠次以上に厚い信頼をしていたと思われます
その理由は家康に対する忠誠心からじゃないかと


家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、元忠は伏見城を預けられ、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は3000ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」 と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
家康らの出陣中に石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。 その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院[15] をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
                                                                          By WIKI


秀吉政権時代
家康は関東に移封されましたが
その時に、元忠は
東北諸大名の、南下に対する備えや監視のため 
下総国矢作城4万石を与えられてます
この時の事が山形藩移封に繋がり
山形藩を鳥居家にまかせ引き続き東北諸藩の監視に当たらせたんです

その時に、
鳥居忠正の妹婿、戸沢政盛を新庄藩
       娘婿、酒井忠勝を荘内藩
       従弟、松平重忠を上山藩
親類藩を周りに配置

はい、ここが答えです
鳥居家との繋がりから
荘内に入部と相成りました~

今年は2016年、
6年後は
酒井が庄内に入部して400年です


400年祭は
全庄内で盛大に祝いましょう!
  


Posted by 黒やぎ at 12:53歴史

2016年04月07日

母狩・鎧と安倍晋三

鎧から眺める母狩
鎧ヶ峰から眺める母狩山

今回は山行じゃないっす(笑)

前から気になってたんですが
母狩山(751m)と鎧ヶ峰(566m)という
一風変わった2山の名前が気になって
ちょっとばかり調べてみました

母・狩ですよ(笑)
姥捨て山を連想してしまうのは私だけでしょうか?(汗)

鶴岡の人たちには馴染み深いですよね
市内から20分もあれば登山口まで行ける点は
登山客の多い最大の理由かな

この2山隣接してるだけあって関連してました


平安時代後期の陸奥国(今の岩手県内陸部がメイン)で
源頼義が安倍氏(安倍頼時)を滅亡に追いやった
前九年の役(ぜんくねんのえき)という戦があります


源義家という人は皆さんご存じかと思いますが
八幡太郎の通称でも知られ、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、
室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先にあたり、その他にも
新田、徳川、鶴岡の酒井もこの流れですが、
源頼義は義家の親父です

安倍頼時は
平安時代の武将で陸奥国奥六郡を治めた俘囚長ですが、華夷思想の影響が大きく、
安倍氏が支配した東北は朝廷側から異国視され、安倍氏自体も『東夷』として蛮族視されていたようです

安倍頼時は戦で亡くなってますが、息子の宗任は降伏し一命をとりとめてまして、
こっからです(笑)

この宗任が、すでに陸奥から離れ鶴岡の山の麓に(黄金地区)に逃れ住んでいた母を
探しにきた事が、母狩山の名の由来があると某書籍に書いてましたが、私的にはなぜ『狩』の字が使われたかが知りたかったんですが、そこはわかりませんでした(汗)


無事再会を果たした宗任は、母を連れて京に上り再起を試みましたが母から断られ、宗任も結局志を断って近くの峰に登り、洞窟に自らの鎧を奉納し、世の平安を願ったと伝えられ、
里の背後に立つ山の名を母狩(ほかり)山とし、
鎧をおさめた峰を鎧ヶ峰というようになったそうです

鎧ヶ峰の方はそれっぽいですよね
今度洞窟探してみようかな(笑)


〆に
滅亡された安倍氏ですが
なんと
安倍頼時の孫は一説には奥州藤原2代目清衡と言われてます
(びっくらぽんです)

その他に
なんとなんと(笑)
宗任の三男に安倍季任という方がいるんですが、季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗り、その子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪。その後、高俊の娘が平知盛の子平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗る。その子孫とされる安倍寛の長男は安倍晋太郎で晋太郎の次男は
みなさん御存じの

安倍晋三内閣総理大臣です

まさか母狩山と鎧ヶ峰が安倍晋三に繋がるとは(笑)
歴史っておもしろいですね~  


Posted by 黒やぎ at 12:30歴史

2016年02月05日

真田丸

今年の大河『真田丸』良さそう?ですね
昨年の花燃ゆの後だけに期待大(笑)
ただ
三谷幸喜だけにコメディ色が強くならない事を祈りたい(笑)

さて、真田信繁(幸村)と言えば、クライマックスは当然大坂の陣であと一歩のところまで家康を追い込んだとこでしょうねぇ。この大坂の陣で名を馳せた訳ですからね信繁は。今から楽しみです

このとき信繁50歳手前


ん?っと思った方もいるかと思いますが
50歳で名を馳せた?

じゃーその前までの武功は?って事ですが


信繁はず〜〜〜っと昌幸(父)の下で動いてて武功=昌幸です

関ヶ原の時も 父と居城上田城に籠り、秀忠の大軍を迎え撃ちましたが、秀忠は上田城攻略すんのやめて関ヶ原に向かいましたからねぇ

信繁は燃え尽きる事なく敗者となり、九度山に蟄居させられます

関ヶ原が1600年、大坂の陣は1614年
九度山で平穏な暮らししてた時に 息子が産まれ、父の昌幸も亡くなってます。ちなみに産まれた子は幸昌(父名を逆に)と名づけてます

そんな平穏な暮らししてる時に猫の手も借りたい豊臣方の使者が来て、一緒に戦おうと悪魔のささやき+金(笑)

豊臣方にさほど義理はないが、九度山にいてもしゃーない、ここは一発当てに行こうか的に九度山を脱出、家臣に声をかけ、貰った金で鎧を赤揃えにして大坂の陣に参加した訳ですよね

ただ、家紋(六文銭)は使用してまへん
兄が徳川方ですからね
迷惑かけちゃあかん的にね
だから世に出てる真田信繁の赤鎧で六文銭入ってる品物やこの画像も妄想にすぎません(笑)


とにもかくにも
信繁の武将としての初陣は
大坂の陣なんですよ(笑)

冬の陣で
大坂城の三の丸南側に大河のタイトルに使われた『真田丸』と呼ばれる土作りの出城(半円形)を築き鉄砲隊を配置しドンドンパンパンと敵をやっつけ武功をあげました

その後
寒いからとりあえず和議を結び(笑)

あったかくなってきた時に
和議が決裂し
さぁクライマックスの夏の陣です

この時、家康にあと一歩と迫る訳ですが、ここで重要なのは信繁隊だけが家康に迫った訳じゃない

毛利勝永隊がイケイケゴーゴーだったため徳川方の守備がそこに集中して、多少手薄になったとこに信繁が突っ込んでいった訳です
なので、いいとこだけ持って行った、一発当てちゃった訳なんですね

大坂の陣で最後まで戦かったのは
毛利勝永で
最後に秀頼、淀殿を介錯したのち
自害したと伝えられてます


島津忠恒は
真田は日本一の兵
と称えた

一方で
望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「あの際立った采配は誰だろう」と尋ね、嘉明は「貴殿はご存じなかったのか。彼こそ毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござる」と答えた。それを聞いた長政は「この前まで子供のように思っていたのに…さても歴戦の武将のようだ」と驚き、賞賛し

江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで毛利勝永の活躍を賞賛し
「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」
と記している。

真田信繁の活躍の裏に毛利勝永有りです


しかし徳川方弱いと思いませんか?

実は大坂の陣には徳川四天王の
酒井忠次、本多忠勝、柳原康政、井伊直政は既に亡くなっていてみな戦歴のほとんどないジュニアばかりだったんですねぇ
これが家康が苦渋を舐めた理由であり、信繁勝永が活躍できた理由です
まぁ家康が70すぎてる点もありますがね

ちなみに
毛利勝永は唯一?だと思いますが、四天王ジュニア全てと戦ってます

大河に今のとこ毛利勝永が出てませんが
期待しながら最後まで観ようかとおもいます  
タグ :真田丸


Posted by 黒やぎ at 22:47歴史

2015年09月09日

致道博物館

致道博物館に行ってきました。


メインはとーぜん
盗まれた家宝の
短刀銘吉光と折返銘備洲長舩住元重


ですが、
個人的なオススメはやはり
信長に贈られた金梨子地糸巻太刀拵の太刀名真光

徳川十六将の掛け軸。
家康の左下に酒井、その隣が四天王じゃなく従兄弟が載ってるのがリアルでいーです。




画像は撮れないので是非!一見の価値有り!!


PS

ここに間違いがあるんだが、致道博物館さん
わかるかな〜
教えてあげた方がいいのか悩むw


お土産にこれ買いました
  


Posted by 黒やぎ at 00:10歴史

2015年06月27日

36人衆

久々に泉流寺


平泉から流れてきたが語源となってるようです

よく、藤原秀郷の妹、もしくは後妻と書いてるのを目にしますが、秀郷に妹はいないので

後妻が正解



徳尼公の木像があり
徳尼公像をまつる廟と



三十六人衆記念碑も

ただ、36人全員の名前を知る者はいないんですね

こっから先は前も書いたのでやめときますが、
たまに来て
徳尼公、36人衆、そしと万寿を思う  


Posted by 黒やぎ at 00:15歴史