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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2014年06月22日

翁山

尾花沢の翁山に行ってきました。
白糸の滝に8時に待ち合わせ、9時から登り始めたんですが、途中の山小屋まで車で行けるんですよ。しかも山小屋になんじゃこりゃ〜くらい綺麗なテーブルがあったり、屋根の裏にスコップが設置されてるあたり、冬場は二階からの出入りする雪深さをうかがえましたw。
この時期は仕方ないのかもしれませんが、虫・虫・虫w、景色が毎回霞んでて登山の楽しみ半減な6月。やれやれです(^^;;
途中に養老の泉やら不老長寿の泉やらなんちゃらの沼とか水の多い山でした。




翁山の由来
曽我明監が一匹の白き鹿を見つけ、宝寿峰まで追って来る、射止めようとして弓矢を引いた時、山頂に白髪の老人が現われ、「私は春日大明神にお仕えしている翁だ」と云い「神佛の有難さを教え、此の地方の万民だけでなく総ての生きものまで助けようと思って此の処に来た」と諭し、白鹿と共に姿を消した。現在の御宝付近であろうか、のちに宝寿峰を翁山と呼ぶようになった所以と云う。
  


Posted by 黒やぎ at 20:32

2014年06月16日

摩耶山Part2

摩耶山倉沢口の開山です。日本国内で「一般登山者が登る山のうちでは危険度の最も高い山」を登った方々もごぞってここはヤバイと言った倉沢御宝前コース。標高は1019mですが、急登り、鎖場、やせ尾根、急降下がこれでもかってほどありますw。この間の関川コースで知ったかしてた私にはきつ〜いお灸ばりに初めて恐いと感じた山行でしたw。



生きて帰れた事に感謝(大袈裟なようで大袈裟じゃない)w。  


Posted by 黒やぎ at 00:05

2014年06月11日

靖国神社の矛盾

戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年に大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により創建されたのが東京招魂社で、一般の神社が内務省管理下にあったのとは違い、陸軍省や海軍省が管理しています。
大村益次郎は会津の方角を向いて(睨んで)建立してありますが、一般ピーポーな目線からすると、誰おたくって思いませんかね。
まぁそれは置いといて
その後明治12年に「靖国神社」と改称されてます。




戊辰戦争以前の幕末の戦いで死んだ人たちも祭神に加えようと言う事になり、明治21年に長州藩の601人が祭神としてまず最初に加えられたようですが、その中には禁門の変で御所に攻め込んで戦死した200人ほどの霊も合祀され祭神となってます。

そう、御所に攻め込んだ=この段階での朝敵を合祀してる事になります。

お国の為=天皇の為と解釈された時代、禁門の変の長州側の戦死者までが祭神になってるのは会津からすれば納得出来ず、かなり不満の声が上がった事から、禁門の変で御所を守って死んだ会津藩士に限り大正4年になり合祀が認められてます。

この時点で禁門の変で御所を守った側も攻め込んだ側も祭神になってる矛盾w。

その後の長州征伐でも長州の戦死者だけが祀られ、攻めた方は祀られてなくて、これにまた不満の声が上がり大正14年に福山藩士と昭和8年に、昭和になってから浜田藩士の戦死者が祀られました。40年ほど経ってやっと、やぁ〜っと攻めた側の一部だけ祀られたんですね。長州征伐では小倉藩も戦死者をずいぶん出したようですが、小倉藩関係者が抗議しなかったから祀られてないし薩摩藩士も祀られてない。

抗議した側の者だけ祀ってるw。
なんじゃそりゃ〜
所詮は長州の招魂社とも受けとれる。

靖国神社が天皇に尽くした人たちを祀る神社なら、松平容保がどれほど孝明天皇に尽くしたか。

もいっちょ言えば、
戊辰戦争で徳川は完全に会津を裏切った事になっておってますが、容保のひ孫を徳川宗家に迎え和解を図ってたり、皇室も容保の孫を迎えて秩父宮妃とし、会津との朝敵問題の氷解を図ってたり、長州の山田顕義の弟の家に容保の息子を養嗣子に迎え和解を図ってたり、会津にごめんなさいしたように思えてならない。

結論として、天皇に弓引く奴なんて日本には誰もいなかった=朝敵などいなかった。

朝敵はいなかったと言う結論。

靖国神社が平和の礎と言うなら、戊辰賊軍、西郷隆盛の西南賊軍や東京大空襲や沖縄戦、広島長崎、それとアジアの戦争犠牲者も含めないとおかしい。

安倍晋三が会津での街頭演説で、私は長州出身の総理です。私どもの先祖が会津に大変ご迷惑をかけた、長州出身の総理としてお詫びしますって言ったんです。

ご迷惑どこじゃねーだろ

歴史は勝者によって歪められ伝えられた結果、矛盾だらけになってます。


今回の資料は
『会津と長州、
幕末維新の光と闇』
星亮一先生と一坂太郎先生

オススメです。  


Posted by 黒やぎ at 02:39歴史

2014年06月09日

まさかの白蛇

今朝のランニング中に白蛇を見つけましたよん。昨日の与蔵沼の伝説を聞いたばかりで、まさかーおい、お前与蔵じゃねーだろーなとかアホな事を考えつつw、白蛇の御利益にすがりたく(>人<;)。
しかしこのコース、もう5.6年以上走ってますが蛇を見かけたのは初めて。
まさか本当に与蔵だったりしてw。



とりあえず宝くじ1枚買っておきますw  


Posted by 黒やぎ at 12:36日々淡々

2014年06月09日

与蔵沼

昨日は田沢ダムの奥の奥にある沼尻沢から入り真室川までの7時間縦走。

このコースを知ってる方はほぼ皆無らしいw。故に虫はメタメタ多いわ熊は目撃するわ獣道は通るわ赤まむしは見つけるわで大変貴重な体験をさせていただきました。おそらく二度とこのコースを行く事はないと思いますw。
途中に与蔵峠ってのがあって、大芦沢と羽根沢と飽海郡との境にあるんですが、昔は最上と庄内を結ぶ要路だったようで戊辰戦争の際も与蔵峠で荘内藩と官軍がバチバチやったそうです。この峠には沼の伝説があると聞き調べてみました。

鮭川村ホームページ
「深さは底知れず、あるとき村のわか者がいかだをつくってぬまの真ん中にいき、深さを計ろうとしてなわ一把(わ)におもりをつけて下ろしたが、底にとどかなかったという。このぬまには主の大蛇がすんでいるといわれているが、大蛇にかかわる物語が伝えられている。
 むかし、このとうげで炭焼きをしていた与蔵(よぞう)というわか者がいた。ある秋の日のこと、与蔵はかまに入れるたきぎせおいをしていた。あせを流したせいか、のどがからからにかわいたので、かけいから流れてくる水に口をつけてごくごく飲んだ。ふと見ると、かけいに小さな魚が二尾(び)流れてきていた。与蔵は喜んでその魚をとらえ、焼いて昼飯のおかずにした。ところがどうしたことかのどがかわいてき始めた。かけいの水を続けざま飲んだが、それでもたまらない。与蔵は大急ぎでさわに下りていき、さわ水に口をつけて飲んだ。
 その日もくれ、夜中になっても与蔵が帰らないので母親が心配して、村人たちとむかえにとうげに上った。炭小屋のところまでくると、そこには満々と水をたたえた大きなぬまになっていた。みんなびっくりぎょうてんしたが、それよりも与蔵はどうしたものかと、みんなで探しまわったが、見つからない。
 母親は気ちがいのようになって、「与蔵やーい、与蔵やーい」とさけんだ。すると、今まで静かに月光にかがやいていたぬまのみなもが急にざわめいて、大きなうずがもり上がったと思うと、そのなかから、にゅとかま首をもちあげた一ぴきの白い大蛇が、真っ赤な口を開けて「おーい」と返事をした。
 与蔵はあまりにのどがかわいたので、谷をせきとめてぬまをつくり、そこに入り水を飲んでいるうちに、大蛇のすがたに変わってしまったのである。
 大蛇は一回すがたをあらわしただけで、いくらよんでも二度とあらわれなかった。母親は泣く泣く村に帰ってきた。
  そこからこのぬまを与蔵沼、峠を与蔵峠とよぶようになったという。それからのち、このとうげを通る人は時々白い大蛇がぬまで遊んでいるのを見かけるという。」 村の伝説より




幸い今回は白い大蛇は見てないですがねw。
その他にも綺麗なブナ林があるんで、もし行くとするなら与蔵沼でUターンがベストかなと。

あっ、そうそう、今回の目的はキャンプする為の草刈りとマーキングでした。10月にテント泊(ただの飲み会)をするそうですw。
私ゃやめときますよ、熊おるし白い大蛇見たらやばいっしょwww。  


Posted by 黒やぎ at 00:05