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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2014年01月27日

官軍か賊軍か

戊辰戦争では荘内藩は結果的に幕府軍(賊軍)として戦った訳ですが、荘内藩にも他藩同様に公武合体を強く望んでいた改革派がいたんですよね。活動が暴露て弾圧(丁卯の大獄)され佐幕派一色になったのも一つの要因ですが、鳥羽伏見の8日前に戊辰の始まりと言われる薩摩藩邸焼討事件、やはりこれが一番の大きな要因だったかと。逆に言えばこれがなかったらおそらくは他藩同様に恭順していたんではと個人的に思います。なにはともあれ1868年の今日は鳥羽伏見の戦いが始まった日です
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/江戸薩摩藩邸の焼討事件  


Posted by 黒やぎ at 12:56Comments(0)歴史

2014年01月26日

酒井の出目

酒井の祖を調べていくと、新田源氏世良田氏の末裔に辿りつくんだが、これは松平(徳川)も同じで今となっては調べようもなく、所詮歴史は誰を指示するかの問題かなとつくづく感じる。


有親(性はわからん)は、子の親氏とともに上野国得川に住んでいたが、敗戦により室町幕府が新田一族を厳しく探索したので難を逃れ三河国学田郡坂井郷に移り住み、父子ともに出家して有親は長阿弥、親氏は徳阿弥(とくあみ)と称したようだ。親氏は坂井郷の庄屋五郎左衛門の娘婿となり一子をもうけ、これが酒井氏の姐広親なんだが、かみさんが産後間も無く死亡した事で坂井を出て東方豊田市山中(松平郷)に移り、豪族松平氏の連歌会にたまたま加わると当主に見込まれ婿となり還俗し、松平太郎左衛門親氏と称したといわれる。この時に一子もうけたのが徳川氏の祖の泰親。親氏は泰親を嫡子に立て、広親には源氏相伝の三池典太の太刀と日の丸の旗を与え泰親の臣とし、坂井を改め酒井とした。を支持してるのだが、出家してから結婚?ってのはどうなんだべな。いずれにせよ酒井と徳川は縁が深いようだ。  


Posted by 黒やぎ at 17:57Comments(0)歴史

2014年01月20日

娘に赤ちゃんがwww



娘に赤ちゃんができましたw。
いや〜、娘が赤ちゃんをあやしてるのを見てるだけで泣けてきたよん(T ^ T)。
ゲームだけどw

しかしまさかね〜
ゲーム買ってやって親が幸せな気分になるっつーのは聞いた事ないがちょっぴしえがったな〜、最近のゲームすげ~な〜。

友コレに乾杯ですよ、ルネッサ〜ンスw


  


Posted by 黒やぎ at 21:30Comments(0)

2014年01月19日

鳥海山山頂の仁義なき戦い

普段見慣れた山形の名山、鳥海山。
何気にネットで鳥海山を探っていたらこんな争いがあったようです。



1701年、鳥海山上の本社造り替えにあたり、天台宗聖護院(本山派)と真言宗三宝院(当山派)にその支配権をゆだねたが当然法門の違いなどから対立、それが荘内藩と矢島藩の領地争いまでに発展したようで、幕府は大目付以下四十数名の検使を現地に派遣、実地に見聞して裁決を下したのだが、徳川最古参の譜代筆頭の酒井14万石と1万石程度の小名生駒氏ではハナから勝負が見えており、荘内藩家老加藤大弍の智略だか策略により現在の県境になっています。




地図を見ると不自然さが際立ってますね。
矢島藩の担当家老金子某は裁決後に加藤宅を訪れ、門前で抗議の切腹をして果てたといいます。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟からいち早く新政府軍に寝返った背景にはこんな経緯も加味されてたんだろうなと感じるますが、矢島を思うと複雑です。

  


Posted by 黒やぎ at 17:01Comments(0)歴史

2014年01月12日

荘内藩の戊辰を考える

荘内藩はもともと京都朝廷をめぐる政権争奪には何の関わりもなく、会津桑名のような朝敵扱いはされてない。奥羽鎮撫総督府が荘内征伐を秋田藩に命じた時も、秋田藩はおろか全国のどの藩も荘内藩がまさか朝敵処分を受けようとは思ってもいなかった。奥羽鎮撫総督府は新政府が東北を平定するために組織(鎮撫とは、暴動を鎮めて民を安心させること)しており、当然その為の人員も少なかったんですが、世良修蔵、大山角之助の討伐派が主導権を握った事で鎮撫とは名ばかりの実質的な討伐軍になり、人員が少ないもんだから奥羽の諸藩に命令し討伐軍に仕立てあげた訳です。ちなみに大山が付札した荘内藩の罪状は、
①幕府の回復を企てている事
②昨年冬に江戸市中取締役の際、いわれなく薩摩藩邸を砲撃し焼討ちした事。
これを聞いた奥羽諸藩は、単に恨みつらみ言いがかりと呆れるとともに新政府軍のアホさに憤ったようだ。
西の方の山陰、東海、北陸、近畿、中国、四国、九州の諸藩へ組織された鎮撫は、みな兵を動かさず説得している点からも奥羽鎮撫がいかにアホだったかがうかがえ、戊辰後の荘内藩に対しての戦後処理は決して西郷隆盛の寛大な処置などではないと考えるのが妥当と言える。

また今度  


Posted by 黒やぎ at 15:24Comments(0)歴史

2014年01月06日

徳尼公と36人衆のアナザーストーリー

泉流寺に行ってきたなう。
酒田36人衆の名前が知りたくて住職さんに電話で聞いたらわからないから石碑を見てくれと言われたもので(^^;;。石碑があり、毎年4月には36人会なるものがあるのに知らないってのはなんなんやろと思いながらねw。


平泉が滅亡し藤原遺臣三十六騎が秀衡の妹だか後室と称する女性のお供をして平泉を逃れ、飯盛山に落ちのび泉流庵を結び徳尼公となり藤原一門を弔いながら静かに余生を送り、徳尼公没後は遺臣36人は地侍となり廻船業やらなんやら営み酒田湊繁栄の礎を築き、後の36人衆と称された、その徳尼公と36人衆を祀ってあるお寺さんです。
読んで字の如く、平泉から流れてきたと表れてますね。


立派な廟とともに酒田三十六人衆之碑という石碑があって側面に名前が彫られてました。が、23人だけww。やれやれ、誰かわかる人いるんでしょうかね〜(^^;;。


しかし、何故飯盛山なんぞにね〜、その前の何年かは立谷沢の妹沢にいたようだが。

私の推測だが、徳尼公は羽黒山で出家したんだと思う。羽黒山に徳尼公の位牌が伝わっているのはそのせい。なぜ羽黒かと言えば藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、田川太郎を奉行に命じ羽黒山神社の本社の大修理を行っていた事と当時羽黒山は治外法権だった可能性があり、徳尼公が逃げるにはうってつけの場所だったんです。まっ、そのあと源頼朝は、家臣土肥実衡に命じて羽黒に黄金堂を建立させることになったもんだから、こりゃあかんと最上川河口の飯盛山に泰衡の子の万寿と36人衆とともに。

そう、36人衆は実は徳尼公ではなく万寿を護っていたんだと思う。そのあと万寿は泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ヶ浜に行ってます。

酒田に36人衆全員の名が残されてないのきっとこのため。

やがて泰高は京都に出て、藤原家再興をしようとしたがならず、結局熊野新宮領に定住し、その子孫は瀬戸内海の因島に移り住んで、巻幡姓を名乗ったようです。

歴史って深いですな〜

点と点を線で結ぶのがね

ながながなお付き合い
ありがとうございました
( ̄▽ ̄)  


Posted by 黒やぎ at 01:48Comments(0)歴史