2016年06月17日

酒井入部の真実

久々に歴史ネタです

庄内でお殿様と言えば
当然、酒井のお殿様ですよね
酒井入部の真実
酒井忠次


酒井家は
徳川の本筋にあたるとも言える
譜代家臣で
酒井忠次は徳川四天王筆頭でもあり
織田信長、豊臣秀吉にも信頼された武将ですが、
その孫の酒井忠勝の時代に信濃松代藩から
荘内に移封されました

ちなみに酒井家の次に松代に移封されたのは
いま大河でやってる真田丸

真田信繁(幸村)の兄
真田信之(大泉洋)です



話を戻して、
酒井忠勝が荘内に入部したのは1622年

庄内を仕切っていた
最上義光が亡くなってから、何年も跡目争いがあり、
それが幕府に知られ、お家よろしくないとの理由で
山形藩57万石は解体させられました
その時に、様々な藩が立藩したそーです
山形22万石
荘内13万8000石
新庄6万石
上山4万石
本庄2万石などなど

その一つである荘内への移封話が、幕府から酒井家に伝えられたんですが

酒井忠勝としては、当然ながら、
山形22万石を所望しましたが、叶わずに
荘内13万8000石に移封となりました

では、なぜ酒井家は山形へ行けなかったのでしょう、なせ荘内への打診があったのか 

答えは山形に移封された
鳥居忠正にあります

鳥居忠正の父、鳥居元忠は
酒井忠次同様に、家康が今川の人質時代からの家臣で、忠次ほどの武将ではなかったものの、
家康は忠次以上に厚い信頼をしていたと思われます
その理由は家康に対する忠誠心からじゃないかと


家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、元忠は伏見城を預けられ、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は3000ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」 と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
家康らの出陣中に石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。 その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院[15] をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
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秀吉政権時代
家康は関東に移封されましたが
その時に、元忠は
東北諸大名の、南下に対する備えや監視のため 
下総国矢作城4万石を与えられてます
この時の事が山形藩移封に繋がり
山形藩を鳥居家にまかせ引き続き東北諸藩の監視に当たらせたんです

その時に、
鳥居忠正の妹婿、戸沢政盛を新庄藩
       娘婿、酒井忠勝を荘内藩
       従弟、松平重忠を上山藩
親類藩を周りに配置

はい、ここが答えです
鳥居家との繋がりから
荘内に入部と相成りました~

今年は2016年、
6年後は
酒井が庄内に入部して400年です


400年祭は
全庄内で盛大に祝いましょう!


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Posted by 黒やぎ at 12:53 │歴史