2014年01月06日

徳尼公と36人衆のアナザーストーリー

泉流寺に行ってきたなう。
酒田36人衆の名前が知りたくて住職さんに電話で聞いたらわからないから石碑を見てくれと言われたもので(^^;;。石碑があり、毎年4月には36人会なるものがあるのに知らないってのはなんなんやろと思いながらねw。


平泉が滅亡し藤原遺臣三十六騎が秀衡の妹だか後室と称する女性のお供をして平泉を逃れ、飯盛山に落ちのび泉流庵を結び徳尼公となり藤原一門を弔いながら静かに余生を送り、徳尼公没後は遺臣36人は地侍となり廻船業やらなんやら営み酒田湊繁栄の礎を築き、後の36人衆と称された、その徳尼公と36人衆を祀ってあるお寺さんです。
読んで字の如く、平泉から流れてきたと表れてますね。


立派な廟とともに酒田三十六人衆之碑という石碑があって側面に名前が彫られてました。が、23人だけww。やれやれ、誰かわかる人いるんでしょうかね〜(^^;;。


しかし、何故飯盛山なんぞにね〜、その前の何年かは立谷沢の妹沢にいたようだが。

私の推測だが、徳尼公は羽黒山で出家したんだと思う。羽黒山に徳尼公の位牌が伝わっているのはそのせい。なぜ羽黒かと言えば藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、田川太郎を奉行に命じ羽黒山神社の本社の大修理を行っていた事と当時羽黒山は治外法権だった可能性があり、徳尼公が逃げるにはうってつけの場所だったんです。まっ、そのあと源頼朝は、家臣土肥実衡に命じて羽黒に黄金堂を建立させることになったもんだから、こりゃあかんと最上川河口の飯盛山に泰衡の子の万寿と36人衆とともに。

そう、36人衆は実は徳尼公ではなく万寿を護っていたんだと思う。そのあと万寿は泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ヶ浜に行ってます。

酒田に36人衆全員の名が残されてないのきっとこのため。

やがて泰高は京都に出て、藤原家再興をしようとしたがならず、結局熊野新宮領に定住し、その子孫は瀬戸内海の因島に移り住んで、巻幡姓を名乗ったようです。

歴史って深いですな〜

点と点を線で結ぶのがね

ながながなお付き合い
ありがとうございました
( ̄▽ ̄)


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Posted by 黒やぎ at 01:48│Comments(0)歴史
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