2014年01月12日

荘内藩の戊辰を考える

荘内藩はもともと京都朝廷をめぐる政権争奪には何の関わりもなく、会津桑名のような朝敵扱いはされてない。奥羽鎮撫総督府が荘内征伐を秋田藩に命じた時も、秋田藩はおろか全国のどの藩も荘内藩がまさか朝敵処分を受けようとは思ってもいなかった。奥羽鎮撫総督府は新政府が東北を平定するために組織(鎮撫とは、暴動を鎮めて民を安心させること)しており、当然その為の人員も少なかったんですが、世良修蔵、大山角之助の討伐派が主導権を握った事で鎮撫とは名ばかりの実質的な討伐軍になり、人員が少ないもんだから奥羽の諸藩に命令し討伐軍に仕立てあげた訳です。ちなみに大山が付札した荘内藩の罪状は、
①幕府の回復を企てている事
②昨年冬に江戸市中取締役の際、いわれなく薩摩藩邸を砲撃し焼討ちした事。
これを聞いた奥羽諸藩は、単に恨みつらみ言いがかりと呆れるとともに新政府軍のアホさに憤ったようだ。
西の方の山陰、東海、北陸、近畿、中国、四国、九州の諸藩へ組織された鎮撫は、みな兵を動かさず説得している点からも奥羽鎮撫がいかにアホだったかがうかがえ、戊辰後の荘内藩に対しての戦後処理は決して西郷隆盛の寛大な処置などではないと考えるのが妥当と言える。

また今度


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Posted by 黒やぎ at 15:24│Comments(0)歴史
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