蜂子皇子が開祖?
久々に歴史ネタ
Wiki的に
蜂子皇子は562年生と記載されてますが
父の崇峻天皇553年生?となってるから
さすがに9歳で子供作らんでしょう笑
587年の丁未の乱により物部氏が滅び蘇我馬子がごり押ししてた
崇峻が即位
588年崇峻天皇が小手子と結婚して
蜂子王子と錦代皇女(妹)が誕生
592年
蘇我馬子により崇峻天皇暗殺
だから
蜂子皇子が聖徳太子の計らいで京を逃れ八乙女に上陸したのは
4歳5歳
この時、母と妹は別ルートで脱出、東北に落ち延び(東北は大和朝廷の管轄外)
旅の途中で妹が亡くなり、母は福島県伊達郡にとどまり桑を植え養蚕の技術を広めたが
蜂子と会えないことを悲嘆して自害したと伝えられている
蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、
羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。
が、他に空海説と役行者説がある
空海(774~835)は真言宗の開祖で
修験道の開祖は役行者(634~701)
年代から見ても
役行者は650年以降に
山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、
吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築きとあり
鶴岡の金峯神社の創建は672年に役行者が開基となってる
月山への登拝道に「行者返し」と呼ばれる急坂もあるのも
出羽三山も鳥海山も修験道は他の山形の山々同様に役行者が開祖だろうと推察される
そもそも
東北への仏教の普及のない状態で
しかも皇族の蜂子皇子が羽黒権現を
感得するなどはありえないかと
山自体の開山は当たり前だが地元民だよ
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